((はじめに ))
いつでも、どこへ行く時も、私のお財布に入れて大切にしている1枚の名刺があります。“通産省課長補佐原田義昭”と書かれたこの名刺を取り出してみるたびに、私は、このいかめしい肩書きのお役人が、本当に私の息子のあの“ヨッシー”なんだろうかと、何とも不思議な気持ちにさせられるのです。
あの素晴らしい日本からの留学生を、私たちが預かってから、もうずいぶん長い歳月が流れました。私たちの所へ来た当時は、17歳の“ヨッシー”は多くの愛すべき素質を持ちながら、たくましいスポーツマンであり、たくまぬユーモア精神の持ち主でした。
あの、舌足らずの英語は、私たちにいつも笑いと、愛と、涙と、時には心配を与えてくれました。しかし、そんな彼から私たちは本当に多くのことを学んだのです。
彼のニックネーム“ヨッシー・ドウル(Yoshi Doodle)”(ヨッシー野郎)と名付けられた時、彼は「“ヨッシー・ドウル(Yoshi
Doodle)”って、一体どんな意味なの?」としつこく聞いたものでした。
私たちの一生忘れらないヨッシーとの出会いは、夫の怒りから始まったのでした。
「外人を預かるんだって。冗談はやめてくれ。これ以上家庭の中に苦労を増やす必要がどこにあるんだ。」
これが夫ジョーの最初の言葉でした。そして一年が経った時、彼は「このままずっと育てたいものだなあ。」と言うのでした。
ヨッシーは今もなお変わらずに、私たちの可愛い息子として、こまやかな心遣いをしてくれます。いまヨッシーは、通産省のお役人として政府を代表して、世界中を飛びまわっています。北京の万里の長城、アラビア諸国首脳との握手、ヨーロッパ各地の会議場。
彼は華やかな国際舞台で活躍中ですが、いまも世界のあちこちから便りを送ってきてくれるのです。パリからの絵葉書、スイスからのおみやげ、アンカレッジからコレクトコールの電話。つい最近では、ニューヨークから急に電話をくれて「お母さん、オクラホマ経由で日本に帰ることにしたよ。」と言ってくれました。私たちにとって“ヨッシー”は、いつまでも可愛い息子なのです。
考えて見ると、“AFS”という制度がなければ、私たちは“ヨッシー”を知ることなどなかった訳で、“AFS”には本当に感謝しなければなりません。“AFS”制度は、約60ヵ国の6000人の若者を国際理解のために交流をさせるお手伝いをしているのです。私たちの町では、“ヨッシー”と知り合ったことにより、本当の日本の姿――目覚しい復興をとげたこと、国際社会で大きな役割を果たすようになったことが十分理解できたのではないかと思っているのです。
池に投げ込まれた小石が、どこまでも波紋を広げていくように、彼がアメリカに来たことは、終わりのない出来事をつぎからつぎに生んでくれました。
“ハラダ・ヨシアキ”は、もう20年も前に私たちの所へやって来たのでした。オクラホマ州タルサ市は、いくつもの方向から、文化が交差しあうアメリカの心臓部といってもいい所でしょう。
彼は多分、この土地で身心共に大きな影響を受けたことと思います。しかし、反面彼もお返しに私たちの家族、友人、そして町全体に、実に大きなものを残していってくれました。私たちはヨッシーを“養子”にしたのですし、彼はいつまでも私たちの“息子”なのです。
タルサの町の人たちは、今でも私たちに、
「ヨッシーは元気ですか?」
「今度は、いつ会えるの?」
「ヨッシーは、きっと忙しいだろうね。」
と声をかけてくれます。
もちろん、私たちは喜んでその時々の彼の様子を教えてあげるのです。
「そうよ、彼はいつも、手紙や写真やテープや電話で声をかけてくれるの。彼は大変な努力家で、いつも目標をたてて、ひとつひとつを確実に成し遂げていくのよ。彼は私たちに目標とは何か、ということをよく教えてくれるんですもの。」
彼のいるお役所は、非常に巾広い現実から仕事をさせているように思えます。
3年程前、ニューヨークで開催された国連会議の後で、タルサに立ち寄ってくれました。あの声、あの笑顔を身近に聞くことは、私たちにとって何んと嬉しいことでしょう。
今もハラダ家とシャクレット家とは、本当に親しく交際を続けていますが、あれもこれも“ヨッシー”が私たちの町にやって来てくれたことから始まったものなのです。
この素晴らしい人間について、いずれ誰か書くだろうと私は思っていました。しかし、夫ジョーが“君がアメリカのお母さんなのだから、君が是非書きなさい”と言ってくれ、タイプライターに向ってこの文章を打ち始めたのです。(1981年3月) |
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