両親、日本に遊ぶ      原田義昭
  
 9月29日午後、秋空が広がる成田空港で私は2人の娘と共に、両親の到着するのを長い間待っていた。
 出口は、もう出迎えの人達でいくつもの人垣が出来ていたが、私はひとり胸の高鳴りを抑えながら感傷にふけっていた。
 2年前、母からの手紙で親父が大きな心臓手術を受けたことを知らされた。それからほどなく、今度は腸に異物が見つかり、やがてガンではないかということで、その除去手術を5回にわたって行なった。私への手紙には、心配させまいとして、いつも元気だよと書いてくるのだが、入退院を繰り返す親父を思うと、私は息苦しくなった。
 “親父が生きているうちに、一度親孝行をしておきたい。”こう思ったのは、1年前の10月のことだった。駅前の本屋で何気なく釣りの雑誌のページをめくっていた私は、突然釣りキチだった親父のことを思い出したのだ。
 “そうだ両親を日本に呼ぼう。しかも出来るだけ早く。もうあとがないんだ。”
 私は早速母に電話で意向を伝えたが、母の答えは慎重だった。手術が続いたため親父の身体が弱っていること、あまりに突然なことで戸惑っていることなどをあげた。私は親父の身体が弱っているのに愕然としたが、恢復したらきっと来てくれるだろう、とりあえず切符を送ろう、時期は向うが決めるだろう。70歳になる年寄りには少々無茶だとは思ったけれど、私は少しばかり借金をして手に入れた2枚の航空券をクリスマス・プレゼントとして送ったのだった。
 やがて、年が明け、春が過ぎ夏になった。この蒸し暑い夏が終われば、東京もいい気候になるのだが、といささか待ちくたびれた頃、ようやく医者からのゴーサインが出たという手紙を受けとった。10月が最も良い季節だということを、両親はよく覚えていてくれた。
 そして今、ガラスの向うに、年老いた両親の姿を見つけた時、私はこみあげてくるものを抑えることは、出来なかった。出口から出てきた両親は、懐かしい笑顔を浮かべて、かわるがわる私を抱き、そして傍らにいる2人の娘たちを抱き上げ頬ずりをしてくれた。
 “祖父母と孫の初めての出会い”であった。
 それから3週間、私たちにとって夢としか思えないような沢山の思い出を残してくれた両親は、再び成田空港から去って行った。すっかりなついた3人の娘から「グランパ(おじいちゃん)グランマ(おばあちゃん)また、きっと来てね。」と熱いキッスを頬に受けながら。
 日本に滞在していた期間、両親はどこにも行きたがらず、できるだけ私達と一緒にいたいというので、わが家と近くにある市民会館を宿泊ベースに決めた。わが家は小さな建売住宅なので、ゆっくりできないのではと心配したが、むしろ両親は“家が小さいと動く量が少ないから疲れなくっていい。”と笑って気に入ってくれたようだ。
 両親は4畳半の子供部屋の2段ベットに寝てもらった。身長180センチもある親父は、どうやっても足がはみ出してしまうが、「斜めになって寝れば大丈夫さ。」と屈託なく笑ってみせた。母は「自分たちがベットを占領して、子供達に迷惑をかけてしまうのでは申し訳ない。」と心配するのだった。
 私達は隣りの6畳間に親子5人が折り重なるようにして寝た。「子供達は実は僕たちと一緒に寝たくてたまらないんだよ。」と説明したのだが、母にはなかなかのみ込めないようだった。アメリカでは親と子が、たとえ赤ん坊でも一緒の部屋に寝るという習慣がないからだ。
 来日した翌日、町内会の運動会が娘の通っている小学校で行なわれた。私達はいつも参加しているので、この日は両親も連れて行った。2,300世帯、5,600人もの老若男女が参加して、暑い秋の日差しの下で、走り、跳び、声援が上がり笑いころげた。初めて運動会を見た両親は「こんな光景はとてもアメリカでは見られないよ。社会の結びつきがこういう形で続いていることは本当に素晴らしいことだ。日本の本当の良さが良く分かったよ。」
 いささか砂ぼこりにまみれて疲れた様子の両親は、運動会には余程感心した風情で、以来何度もこの時の話しを繰り返したものだった。
 両親がわが家に滞在中、こんなこともあった。普段の私は仕事が忙しいことをいいことに、滅多に家で家族と夕食を食べることがない。妻や子供達と一緒に夕食をとりながら、両親は考えたのだろう。明日は帰国するという晩のこと、親父はいつにない厳しい顔付きで「お前が忙しいのはよく分かる。でも子供達にとって、食事の場は教育の場なんだよ。仕事に疲れた親父の姿を食卓で子供達に見せることが、何よりも厳しい教育なんだよ。」と私に諭したのだった。そう言えば、私が実の父親から、そしてアメリカ時代はこの親父から学んだ多くのものの中で、確かに親父の疲れた顔と食事とが無意識のうちにダブっていたような気がする。
 「うん、出来るだけ努力するよ。」私はなんとも自信なさそうに答えたものだった。
 朝から晩まで両親の世話にあたってくれたのは女房だった。車も運転するし、英語もブロークンながら通じるため、大抵は女房任せにしてしまっていた。
 「それにしても大変ね。外人さんの食事を毎日作るだけでも大変なのに、狭い家に一緒に住むとなると、やっぱり気疲れするでしょう?」ご近所の奥さんからもずいぶん心配して頂いたようだ。私はほとんど家にいないのだから、大きなことをいう資格はないけれど、私達はいわば欧米の合理主義を出来るだけ取り入れるように努力をした。例えば、客として扱うのではなく、家族として接すること。食事も特別なものを作ることはしなかった。
 わが家に迎えると、まず台所へ案内し、台所の冷蔵庫を開けて見せ、パンやコーヒーの置いてある場所、ガスコンロの使い方などあれこれ教えた。また駅までの地図、電車の路線図等をローマ字入りでメモを作ってあげ、電話のかけ方からショッピングの時に必要な会話なども教えた。
 かくして両親は家の中では放ったらかしにしていた。両親も自由にふるまっていた。両親の朝は早く、6時頃には起きて、コーヒーを沸かし、トーストを焼いて食事を済ませた頃、私達が起きてきて、今度はやおら納豆と味噌汁で朝食がはじまるという具合だった。
 「お父さんが昼間暇を持て余しそうだわ。」と女房から聞いて「家のペンキでも塗ってもらおうか。」と言っておいたところ、家へ帰ってびっくり。いつの間にかペンキが塗られて見違えるほどピカピカになっていた。お陰でしつこく売りこんでいたペンキ屋さんに高い費用を払わずに済んだ。
 久しぶりに毎日英語を使う生活が続いた。それまで錆びついていた英語が少しずつなめらかになってきた。
 ところでこの滞在中、両親が英語で話した人は何人いただろう。本当は多くの人とお話しをしたかったものと思う。
 日本人はみんな英語を勉強している。中学の3年間、高校の3年間、さらに大学4年間学ぶ人も多い、それなのにどうしてみんな英語を話すことを恥ずかしがるのだろうか。私は、わが国の英語教育に何か問題があるのではないかと思う。読み書きだけでの英語では不十分だと思うのだ。聞いて話す英語を徹底的にやる必要がある。シェークスピアを読みバートランド・ラッセルを解釈するのも大切なことだか、何といっても自分の気持を相手に伝え、相手の言い分を聞くことこそ必要なのではないだろうか。
 日本人は生来語学に弱いから仕方ないと説明する人もいるが、今の英語教育をもう少し会話やヒアリングを中心に置くべきではないだろうか。仮りに受験制度が今日の英語教育に影響しているとすれば、できるだけ早く受験方法を改めるべきではないだろうか。世はすでに日一日と国際化へと進展しており、今後もその度合いはますます強くなっていくものと思う。真の国際化とは、決して国際会議場やホテルの建設にばかりあるのではない。
 国境や国籍を越えて、いま政治、経済、社会、文化が交流する時に、言いたいことを自分で言い、また人の主張を理解することが、英語教育の本来の目標だと思う。
 両親は再び遠い国の人となった。私は少しばかりの疲労感を覚えながらも、今は年老いた両親と心はいつも身近かなところにあることを確認して、ひとり満足な気持にひたったものだった。

 昭和59年11月