「世襲」の規制には慎重に
原田義昭 (平成21年5月)
  「世襲」とはなにか、生まれながらにして親の地位、財産をそのまま受け継ぐことで、天皇の世襲(憲法2条)を別格として、現代社会でも世襲ではないかと目される現象は珍しくない。政治家の、特に国会議員の世襲問題がこのところ顕在化して、政党によっては早々と制限もしくは禁止する方向だという。
  親が国会議員だった場合その子はそのまま同じ選挙区から出てはならない(地盤を受け継いではならない)というのが大まかな趣旨である。そもそも親の地盤から出れば新人としては大いに有利で比較的容易に当選することができ、結果的には他の競争候補の芽を摘むことにもなる。これは明らかに機会の平等に反し(憲14条)、かつそのように生ぬるい環境から出てきた議員では将来国家指導者になるには堪え得ない、などを理由にしているようだ。
  しかし選挙はいつの時代も厳しい、大衆民主主義、かつ与野党勢力が伯仲している中では容易な選挙というのは一つもない、現職議員や世襲たる議員が次の選挙でその地位を保証されているわけでは決してない。たしかに世襲候補が初出馬において組織、知名度、資金力など有利な要素を持っているのは事実だが、それが選挙の帰趨を常に決定するほど我が民主主義が柔(やわ)に出来ているとは思わない。民主主義では選挙を通じてのみ最善の指導者を選ぶのだが、その候補者たる者は本来厳密な意味での平等ではあり得ず、年齢、男女、資産、学歴、経験、職業全て格差(差異)があり、自由も民主主義も十分保障されたこの国において出自(生まれ)だけを理由に規制することには憲法上の職業選択の自由(憲22条)を冒す懸念もあるためぎりぎり抑制的でなければならない。それを踏まえて賢明かつ総合的な判断を全て有権者にゆだねているのが我が国の誇るべき選挙制度といえる。
  実は我が国社会は、意外にも「世襲」によって成り立っている。身の周りを見よ。中小企業も商店も医者も歯医者もスーパーも、農業、漁業はもちろん不動産屋も酒屋も郵便局もお寺も葬儀屋も芸能人もマスコミも、実はわが国の社会は隅から隅まで世襲があると言っても過言ではない。好いか悪いか、それは一概に言えない、ただそれで我が国は成り立ってきたし、それで繁栄もしてきたし、それで国と社会が安定してきた。人は家族の一員として生まれ文字通り親の背中を見ながら育ち、ある時は当然のように、ある時は世代間の葛藤を克服しても父と同じ職に就く。中小企業や農家の家督相続や承継問題、とりわけ承継税制などはまさにその社会構造の連綿たる継続こそが国の安泰と繁栄に繋がるという決意の宣言でもある。多くの産業分野で今や後継者対策に余念がないが、「後継者」とは紛れもなく大方の場合「世襲」のことを念頭に置いている。
  一方それでいてわが国は十分に社会の流動性も確保されており、自分の好みと能力と努力で、どの分野にでも進出できる、努力次第でトップにまで上ることはいくらでも可能だ。それほどわが国は職業選択の自由の保障された国でもある。
  仮に国会議員の世襲を禁止とする。親の跡を継ぐことが良くない、ということが国会議員選挙を範として一般化したとき、親の仕事に誇りを感じ、その生き方に学び、日本人としての伝統、文化を繋いでいこうとする価値観を否定することにも繋がる。国の安定と繁栄を目指す風土、誇りや価値を積極的に壊すことに合理的な理由があるとは思えない。
  その上で、世襲の禁止、規制を具体的にどう法文化するかは意外に難しい。息子か婿か3親等か、隣の選挙区ならいいのかなどと議論は尽きず、遂には不健全な解釈論議、脱法論議を引き起こすかもしれない。また容易な選挙がひ弱な議員を作り出すというのなら親が国会議員ばかりでなく県知事、市長、大手の財閥、ある時は地方議員、官僚の子弟たち、更には巨大組織にのった候補者にまでその対象を広げなければ一貫性がない。また将来の政治家ばかりでなく、既存の政治家も遡ってアウトにしなければ平仄が合わない。たしかに今の国会には世襲議員が多くなっている。閣僚の顔ぶれを見ても一目瞭然だ。政治が活力を失い、若い人の進出を閉ざし過ぎたのではないか。それらを唯々に受け入れてきたことも反省すべきだ。政治家を養成するシステムが整備されてない、多選の弊害、派閥や議会の形骸化、議員の専門化の是非、政治活動に金がかかり過ぎること、政策の勉強に打ち込めないこと・・・・など議員や議会を取り巻く多くの基本問題があってこれらもまた与野党超えて真剣に検討しなければならない。
  横綱は二人ともモンゴル人、囲碁界に中韓台の出身者が大活躍している、イチローや両松井が暴れまくる・・・もしだからモンゴル人を抑え、中韓出身者をいじめ、イチローの活躍を人種主義で貶(おとし)める動きがあるとすれば、大相撲にも、日本の囲碁界にもまたアメリカの大リーグにも、明るい未来はない。世界は広く、人材は雲霞の如くある。その人材はあらゆる所から集めなければならない。そのうえで徹底した競争をさせることだ。その競争を勝ち抜いてこそ初めて最高の人材、指導者として上に頂くことが出来るのであって、あれはだめこれもだめ、と入り口を塞ぎ結果出てきた選抜者が本当の指導力を発揮出来るはずはない、なぜならそれは真に実力と尊敬を勝ち得たものと世間が認めないから。 
  この「世襲」議論の特異なところ。全ての議員は一応客観的に「世襲」か否かに分類される。世襲議員の側が本件で発言すると必ず弁解か自己弁護かに取られかねない。非世襲議員が勇ましく発言すれば一見大衆(選挙)受けはするが、多分にポピュリズム(大衆迎合)傾向も否定できない。もう一つ、「世襲」という言葉にはすでに負のイメージが付いており、それを政治の局面で覆すことは容易でない。このように「世襲」のテーマは不幸にも合理的で客観的な議論が出来にくい素地にある。昔、「政治改革」の一語で全て思考が停止したこともあった。
  「世襲」議論は時宜を得た重要なテーマである。単に特定の選挙の立候補をどうするというに留まらず、国の成り立ち、伝統、文化にも繋がるものであるだけにより多角的、より歴史的視点からの議論が必要であり、本稿が論点を多少でも提示したと理解されれば幸甚である。
                                                               以上